この人に聞く!vol.11 小原流信濃支部 松本 豊秀 先生
松本 豊秀 先生
長野県連副会長。小原流信濃支部参与。
昭和32年(1957年)小原流入門。平成6年(1994年)信濃副支部長、平成20年(2008年)信濃支部長を歴任。
東信地域で広く教授活動を行う。多くの弟子を育て、専門教授者、支部役員となる。教授者活動として40年近く上田西高等学校で華道を教えている。2021年に上田市から依頼を受け、真田祭で上田城櫓門前に大きな造形作品を制作。大変好評であった。
愛弟子の村上芳香先生は自身の後任として、現在小原流信濃支部支部長を務めている。
写真は左から清水豊潤先生、松本豊秀先生、村上芳香先生
いけばなのお稽古が嫌いだった
-先生は15歳で小原流を習い始めて以来、小原流信濃支部で副支部長、支部長、参与と長年支部のために貢献されていますね!
はい。何となく過ごしていたら、気付けばここまできておりました(笑)。
冗談のように聞こえるかもしれませんが、半分は本当の話です(笑)。
中学校の頃からいけばなを始めて稲村タケ先生、後に工藤和彦先生に師事しました。その頃はお茶は立てて当然ですし、お花も嗜みとして習うのが当然のことでした。東京の目黒に住まい。いわゆる花嫁修業をするお嬢様だったのよ(笑)。現在の小原流会館が立つ前の古い小原流の建物も存じています。
研究会ではいつも怒られて怒られて。何しろ全てのお稽古事が中途半端で、出来が悪かったの。三世小原豊雲先生にご指導いただいたときも作品を前に「あかん!あかん!」と怒られていました。いつも良い点数をとって褒められている方もいらしたんですけど、あれは多分、古作厚子先生だったと思います。
お稽古に身が入っていないから当然なのだけれど、出来が悪いからといけばなは嫌いでした(笑)。
-嫌いな習い事の支部役職者までなられるなんて!転機はあったのですか?
転機は20代後半です。まさか自分が田舎に嫁ぐなんてとそれも驚きつつ、信州に嫁ぐことになりました(笑)。私は東京生まれの東京育ち。まず言葉の壁にぶつかりました。言葉が違うから馴染めない。私は私で近所付き合いに興味がない(笑)。 今は少しは緩和されたかもしれませんが、当時の田舎に溶け込むには、出身地や地縁が重要だったこともありました。
信州で「何をしたらいいかしら」と思って過ごしていたら、工藤和彦先生が信濃支部の先生を紹介してくださりました。
その先生が自身の跡継ぎにと、私を指名してくださったんです。それまでお家でお花を生けたこともなかったのに!
そのための条件が「東京で工藤和彦先生のお稽古を受けること」。いけばなが楽しくてと言うより「東京に戻れる!」と喜んでお稽古に通うことにいたしました(笑)。
そうして先生の後を継がせていただくことになって、専門教授者になりました。その頃から習ってくださっている方が、今でも教室に通ってくださっています。
専門教授者になるための動機はもしかしたら不純だったかもしれませんが(笑)、そうして人との縁も生まれて、土地との縁も生まれました。そうこうしているうちに、どうして引き受けたのかは今では覚えていませんが、信濃支部の幹部にまでなることになっていました。
信濃支部では子供たちにいけばなを教えることを大切にしています。長野という土地柄、大学生になるとどこかに引っ越してしまう子とがほとんどです。でも私のように、いけばなで知らない土地でも繋がれるかもしれないと思うと、やはり種まきは重要だと実感しています。
いけばなにのめり込む
-支部長を引き受けるほどいけばなにのめり込むようになったきっかけとは。
研修課程制度が始まったことがきっかけです。それが本当に楽しかった!
小原流研究院になるための登竜門であることとは知らずに支部長の許可をいただいて、のほほんと参加いたしました。 行ってみたら工藤和彦先生がいてびっくり。私がなんの下準備もしていないことを知った工藤和彦先生もびっくり仰天!(笑)。
それでも参加すると、学生の気分に戻ったようで楽しくて楽しくて。のめり込みました。真剣に勉強しました。
研修課程初年度の一年目から参加したので、現在も大活躍している工藤亜美先生、知地正和先生、平出仁穗先生、横浜支部長になられた米山美砂子先生が同期なんですよ(笑)。 勉強にのめり込んでいるうちに副支部長にまでなったので研修の途中で辞めてしまいましたが、参加している皆様とは心構えが違うからよかったと思っています。私はただただ、いけばなの勉強がしたかった。
本年度から研修課程が講師養成コースと実力錬成コースとに分かれますが、それがあるべき姿だと思います。
それと縁があって、上田西高等学校でいけばなを教えることになったことも、この世界にのめり込むきっかけでした。上田西高等学校ではいけばなは部活動ではなく、正課として取り入れられていました。1時間で30人、それを3時間ですので約100人に一気に教えるんです。
次の時間が来てしまうから、時間内に終わらないのは許されない。
のんびり過ごしている私でしたが、その時ばかりは死ぬ物狂いでした(笑)。今思い出しても大変!(笑)
でもそこで出会った学生との出会いが私を成長させてくれました。
一人一人個性も違う、習得度も違う。でも出来が良い子ばかりを教えていてはいけません。
先生が生徒に、好き嫌いをしてはいけません。
学生にいけばなを教えることが、私に全ての人を平等に扱うという気持ちを育ててくれました。
そこで出会った学生たちが長野を離れたあとでもいけばなを習っていたりするんです。 そうやって縁がつながっていくのも嬉しく思います。
いけばなと出会えて幸せ
-様々な縁がつながって支部長までなられたのですね。
先代の清水先生が信濃支部30周年記念行事の際に引退を決意なされたとき、私を推薦してくださりました。
先代支部長の清水先生とはどこに行くのも一緒でした。本当にどこに行くにも一緒。仕事ぶりを見ていたので、引き受けたときは大変とは思いませんでした。実際は大変だったのだけれど(笑)。
私がこんな感じですから、支部の皆様がはらはらするので助けてくださる。
それが幸せ。みんなに助けてもらって支部が団結して一つになる。できすぎるよりもいいかもしれないとポジティブに考えるようになりました。
親しみを持ってもらえていたのかなと思います。
信濃支部の発展のためには仲良く楽しく過ごすことが大切と思い、どの意見も聞いて、ありがとうと言う気持ちで過ごしました。それでも最後に決めるのは支部長の務めですので、周りと意見が合わなくても、決めるときは決めます。
引退を決意したのは45周年記念行事の準備の時。年を取ると色々大変で、楽しいばっかりではなくなります。
先代の清水支部長の隣に私が隣にいたように、私の隣には常に現在支部長の村上支部長がいてくれました。
安心して任せられる後任がいる。記念行事には家元がいらしていただいて、大勢の方がきて、最高でした。
これからは現在支部長の村上先生のサポートをしながら過ごすつもりです。
村上先生は根性とやる気、組織力があるからすごいんですよ(笑)。
いけばなから様々な縁をいただいて、子供たちや支部の皆さまに次のバトンを繋げることができています。
嫌いだった習い事だったのに、面白いでしょう?(笑)
本当、幸せ。
今回は長野から小原流会館までお越しいただいてのインタビューでした。隣にはもちろん現在支部長の村上先生のお姿が。当初の予定では信濃支部のこどもいけばな教室のお話や後進育成について詳しく伺う予定だったのですが、松本先生がいけばなが嫌いだったという衝撃の告白から(!)インタビュー終盤から趣旨を変えてお話を伺いました。最初から最後まで笑いの絶えないここに書ききれなかったこぼれ話、そして最後に幸せと言った先生の大ファンになったインタビュアーでした。松本先生、誠にありがとうございました!
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